2011年8月10日水曜日

リスクについて考えてみたい

リスクアドバイザーという肩書きが存在する。専門家がその専門性と権威を盾に大衆に向かいリスクについて語るとき、はたして語り手は自らが「語るリスク」について十分自覚できているものだろうか?

リスクについて震災以前から研究してこられた研究者集団がいる。私たち大衆にもわかることばで貴重な示唆を与えてくれている。

持続可能な社会実現に向けた評価研究部門 | 産総研 AIST RISS 産総研:安全科学研究部門
岸本充生 「リスク評価はそもそも不確実な状態を評価する科学である。」 2011/02/28 
http://www.aist-riss.jp/main/modules/column/atsuo-kishimoto006.html

BSE対策として何ら明確な姿勢を示せなかった食品安全委員会を批判する文章はこうだ。厳しくその存在意義を問うている。
「自らを「科学的知見に基づき客観的かつ中立公正にリスク評価を行う機関」と定義し、「科学的知見」という言葉の意味を「十分なデータ」と同義であると考え、リスク評価は十分にデータが集まらないと実施できないものだと誤解している」

震災以前に上記のような「覚悟」を示してくれていたこの研究者集団。主として食品の安全基準を論じ、時に「地球温暖化」説は疑念の余地なき真理とした上で「原発」のリスクとベネフィットも論じてきたようだ。しかるに、一旦原発事故が起きてしまって後の放射線リスク関連の提言はおしなべて歯切れが悪いのは残念だ。

たとえば上記の批判は、放射能の誠実なリスク評価を避けてきた(内閣官房、原子力安全委員会、文科省、そして食品安全委員会も含めて)様々な機関、そしてリスクアドバイザーなる役職者の姿勢にそのまま向けられても仕方がない状況ではなかろうか?

市村正也 「リスク論批判:なぜリスク論はリスク対策に対し過度に否定的な結論を導くか」 Too risky risk analysis 名古屋工業大学技術倫理研究会編「技術倫理研究」第5号(2008)pp.15-32
http://araiweb.elcom.nitech.ac.jp/~ichimura/risk.html
  
上記は決して長文ではないが論考は多岐にわたる。重要な視点として二つ挙げられている。

1)リスク評価の不確実さ
「リスク論が扱うリスクは、基本的には、対策が必要かどうか議論が分かれるような、小さな、または不確実なリスクであると言ってよい。ところで、一般に小さな・不確実なリスクの正確な評価は原理的に不可能である。」

2)リスク論を使う目的・意図の非対称性
「リスク対策が不要であると主張したいときにリスク論が用いられることが多くなる。そのため、リスク論の問題点を考えるとき、それが本来必要なリスク対策を不要と判断してしまう恐れがないかどうかに重点を置く必要がある。」

さらに独自の論点として「科学的理解の不十分さ以外の、リスク評価を誤らせる二つの要因」を挙げ、これらを本来の内在的リスクに対し「メタリスク」と呼んでいる。 

a) 関係者がルールを破るリスク 

b) 専門家にだまされるリスク 

「水俣病では情報を提供すべき専門家が情報提供しなかったためにリスク対策に失敗したが、薬害エイズでは情報提供を受けた専門家がそれを無視したためにリスク対策に失敗した。どちらのケースも、科学的知識の不完全さのためではなく、専門家の不誠実によって正当なリスク評価が行われず大きな被害が発生した。」

「専門家にだまされて被害を被る」ことを回避するためには、「専門家によるリスク評価を絶対視するのではなく、より一段上のレベルで専門家の主張を相対化して検証し、同時に専門家自体を評価する必要がある」

c) 人々の不安感とリスク論

「原子力発電所の安全性を専門家がいかに力説しても、人々がそれに納得せずに不安を持ち続けるのは、原発に関して繰り返し事故情報隠しや検査結果偽造などの不正行為が行われているからである。人々はこれまで報じられた様々な事件から、関係者の規則破りや専門家の欺瞞の可能性を学習し、それに基づいた不安感を抱く。それは当然かつ合理的な不安である。」

「人が現実に存在する危険なものを恐れているとき、問題にされるべきは現実であってその人の心理状態ではない。上で見たように、リスクに係わる不正行為は実在する。そうである以上、容易に信頼しないことが現実に正しく対応した心理状態なのであり、信頼を問題にするなら、信頼をどうやって生み出すかではなく、安易な信頼が生まれないようにするにはどうしたらよいか、という問いをたてるべきなのだ。」

結論は以下の提言となる。

1) 専門家の主張を相対化する。科学的理解の不十分さから間違えている可能性だけでなく、専門家が意図的に偽っている可能性も考慮し、専門家自体の評価を怠らない。

2) ルールが破られることによるリスクを無視しない。ある程度の規則破りを想定したリスク評価を行い、規則破りがあっても大きな被害が出ないように余裕を持って制度を設計する。

3) 科学技術も社会も可塑的であることを忘れない。現在の科学技術や社会を絶対的な前提にしてしまうと、リスク対策のコストが過大に評価され可能なリスク対策が狭く限定されてしまう。むしろリスク対策の実施をきっかけに科学技術そのものを、社会そのものを変えていくという指向性が必要である。

ここに至って私が付け加える言は何もない。最後に、専門家による「科学的」な「リスク管理」に対置される概念として「予防原則」について触れられている。

「予防原則とは、科学的根拠が不十分でも社会的な合意に基づきリスク対策を実行する、というような意味である。」「ベネフィットとの釣り合いを考えリスク対策を決めるプロセスは、本来は専門家の独断ではなく社会的合意を踏まえて行われるはずのものだ。」

さて、私自身はネット上でダウンロードできた健康手帳というのを印刷してみた。福島県民の健康調査で問診票は手許に残らないから自ら備えるべしという意味だ。飯舘村の一部のグループはすでに独自の行動を起こしていた。

福島第1原発:住民独自で「健康手帳」…飯舘村
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110808k0000e040027000c.html?inb=yt

記事中で「福島県は全県民を対象とした健康調査を今月開始するが、問診票は回収されるため、受診者側の手元に記録は残りにくい」とある。ただ全県民にいずれ何らかの「公式」手帳が配布されるという話もある。いずれにせよ今は落ち着いて事故当時の行動を思い起こし記録にとどめておきたい。「リスク」について多面的に考えながら・・・

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